
朝の空気はどこか結晶がはりつめていた。
いつもより十五分ほど早く家を出ると、バス停には人影がなかった。車内には五、六人のサラリーマン風の背広姿の男たちがじっと座っていた。いつも見かける顔触れとはまったく異なっていた。バスはいくつもの停留所を駆け抜けながら駅へ滑りこんでいった。
駅も気のせいか少しゆったりしていた。改札からホームまで人にぶつかることなくたどり着く。アナウンスもまだ殺気だっていない。ホームでは人が新聞をひろげて電車を待っている。いつもの光景とはまるで異なっている。これほど通勤にゆとりを感じられるならこれからは十五分早く家を出よう。やってきた電車に乗りこむとそのまま座ることができた。通勤電車で座ったのははじめてのことだった。今日はついてる。なにかいいことがおこりそう。
三十分ほどして電車が駅に到着する。会社は歩いて二、三分ほどのところにある。まだ余裕がある。そうだ珈琲でも飲んでいこう。改札の脇に珈琲屋があるのだが、通りかかる時に見てもいつも満席だった。ひょっとすると今日は席が空いているかも知れない。珈琲屋の透明の自動扉が開く。
「いらっしゃいませ」
案の定店内に人影はまばらだった。店の一番奥の席に座り、エスプレッソを注文し、出掛けに新聞受けから引き抜いた新聞をひろげた。春の陽気が珈琲屋までひろがっているようだった。
ふいに珈琲の香りが鼻につく。新聞をさげるとそこに緑色に金の縁取りがされた小さなカップのエスプレッソが置かれていた。いつのまに持ってきたのだろう。まったく気がつかなかった。あたりを見回したが店員はすでにカウンターの中らしかった。新聞をそのままたたんで黒い鞄に押しこみ、珈琲を啜る。独特の苦みが舌を流れ、まだ眠っている自分を揺り起こした。
自動扉のモーターがぶうんという唸りをあげ、ひとりの男が入ってくる。背広に黒縁の眼鏡、黒い鞄といういかにもサラリーマンの風情であった。自分と同じ出立ちに、思わずこみあげてくる笑いを珈琲と一緒に流しこむ。男は店の真ん中にしつらえられたカウンター席に座り、エスプレッソを注文していた。自分より若そうだが猫背が気になった。きっと座ってばかりの仕事をしているのだろう。
五分ほどして、男の背中が小刻みに震えはじめる。泣いているのだろうか。それにしては男は背中の異変に気づくこともなく、平然と珈琲を口に運んで啜っている。それとも自分の眼の調子が悪いのか。たしかに昨夜は飲み過ぎて帰ってきた。そして朝食を食べようにも食欲がわかず、そのまま家を出ていつもより早いご出勤となったわけだ。眼の具合などではないようだった。男の背中の震えはしだいに大きくなっていき、気のせいか背骨のあたりが少し膨らみ、背広が両側に引っ張られていた。だが男はまったく気づいていない風で、何事もないかのように珈琲を飲み続けている。誰か気づいていないのだろうかとあたりを見回してみたが、店内に変わった様子はなかった。声をかけるべきだろうか。少し額のあたりに汗が滲んできた。
男の背中が割れはじめる。あっと思ったとき、男の背中の割れ目から光がもれ、蝉が殻から出るようにひとりの男がでてきて男の隣に座った。とたんに男の背中はもとの猫背に戻っていた。男はまったく気づいていないようだった。新しい男も黒縁の眼鏡に黒い鞄、少し猫背であった。店内を見回してみるが誰も気づいていないようだった。店員が新しい客に気づいて注文を取りに来ていた。その男はエスプレッソを注文した。
少し頭が混乱してきた。なにしろ昨夜はかなり飲んだからな。幻でも見ているのだろう。誰も気がつかないようだし、きっと何も起こっていないのだろう。いまの客もきっと自動扉から入ってきたに違いない。あまりにカウンターの男に気を奪われていたので気づかなかったのだろう。
残った珈琲を飲み干してそろそろ会社に出掛けようと思ったとき、今度は新しい男の背中がぷるぷると震えだした。思わず珈琲を飲む手を止め、じっと男の背中に眼をこらした。音こそしないが、たしかに男の背中が震えていた。震えているというよりは、電波が乱れて画像が揺れているテレビのようだった。震えて見えているだけかも知れない。たしかに物理的に震えている様子とは異なっていた。もし物理的に震えているのなら、その震えが腕まで伝わり、平然と珈琲など飲めようはずがなかった。きっと直接触っても何も起きていないのだろう。
でも背中の震えは確実に大きくなっていた。背中の真ん中の隆起がはじまり、その稜線に緊張が走る。そして一瞬光がもれたかと思うとなかからひとりの男が転げるように飛び出し、男の隣に座った。今度は間違いなかった。まばたきを我慢して光景をすべて眼におさめていた。男の背中はまた見覚えのある猫背に戻り、店員が新しい客に注文を取りに来ていた。たしかに店にとっては客が自動扉からやって来ようが背中からやって来ようが客には違いないのだろうが、自分にはいいようのない違和感があった。
五分もすると店内は満席となっていた。
もういつも電車が駅に到着する時間となっていた。早く会社に向かわなければならない。少し冷めてしまった珈琲を一息に飲み干し、お勘定を済ませ、誰とも眼を合わせないようにしながら店を出た。店を出て後ろを振り返るといつもの満席の珈琲屋が見えた。
それでも少し違和感があった。眼をつむってあたりの音に聞き耳を立てる。駅のアナウンス、改札の音、電車の音、キオスクの売り子の声、クラクションの音、人の靴音、どれもいつものままだった。大きく息を吸って気を落ち着け、ゆっくり眼を開ける。あたりをせわしく行き交う人々は、誰もが背広に黒縁の眼鏡、黒い鞄をぶら下げていた。
ぼくは世界の底にどこまでも沈みこんでいった。

